今年3月に解散し90年の歴史に幕を閉じた「苗穂町親交会」より、苗穂駅周辺まちづくくり協議会に解散による余剰金をご寄贈いただきました。
4月17日の定期総会の際に、寄贈式を行い「苗穂町親交会」会長 小竹氏より「苗穂町親交会」と苗穂の町の歴史についてお話をしていただきました。
寄贈式の写真と共に以下に内容を紹介いたします。
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苗穂町親交会(中央・東区苗穂の会員数122名)は、会員の高齢化で運営が難しくなり、この3月25日を持って90年の歴史に幕を引き解散しました。
多少の余剰金が出ましたので、苗穂駅周辺まちづくり協議会に寄贈申し上げます。新しいまちづくりの一助に使っていただければ幸いと存じます。
今日、苗穂町は東区苗穂と中央区苗穂の二つに分かれておりますが、元はといえば一緒でした。昭和47年の区制で、JR函館本線を挟んで南と北に分かれたのです。
大先輩でございます大島金蔵氏と数名の有志により「町内の発展は融和と親睦にある」と、大正6年に「苗穂町親交会」が結成されました。
ここに、苗穂地区の開拓・発展の歴史についてお話します。
平成10年4月発刊の郷土史誌「なえぼ」によりますと、札幌開祖の一人大友亀太郎が、幕府の役人で箱館方面の開拓の後、慶応2年、連れの一行と石狩の地に足を踏み入れました。
近くに川が流れ、農業に適した土地として元村(今の東区北13東16)札幌村郷土記念館のある地区が選ばれ、開墾の鍬が入れられたのです。原始林を切り倒し、道をつけ、橋を架け、生活水の確保と田畑への灌漑のため、豊平川の支流から約4キロに及ぶ用水路を突貫工事で開きました。これが大友堀と呼ばれ、生活物資の運送路としても利用されました。創成川としてその姿を今にとどめ、札幌市の東西を分ける基準線となっていることは、皆さんご存知の通りです。
その後、元町・丘珠・伏古地区は札幌玉葱の一大産地となっていきますが、一方、隣接の苗穂地区は亜麻・ホップなどが植えられ、帝国製麻そしてサッポロビール工場が建ち、雪印乳業、フルヤ製菓、福山醸造、JR苗穂工場など、北海道を代表する企業が育ちます。そのほか、鉄工、木材、農機具など日常雑貨洋品の町工場が集まり、商店街も賑わいを見せ、苗穂は文化・産業の中心となって、産業面では、その牽引車の役割を果たすという輝かしい時代でもありました。
しかし、昭和40年代になって定山渓鉄道の廃業・北3条通を走る路面電車(市電)も取り外されて、郊外へと伸展していく中で人口もドーナツ化現象が起こり、活気を呈していた町は衰退の一途を辿り、昔日の面影を失ってしまいました。私達住民は取り残された寂しさを禁じえなかったのです。
けれども、再開発の機運が盛り上がり、サッポロファクトリー地区、もう一方の東地区はイトーヨーカドーを中核としたアリオがオープン、サッポロビール園・日本ハムファイターズの屋内練習場など、一大ショッピングモールが形成されました。本日のテーマ新苗穂駅周辺地区のまちづくり事業が本格化すると、各方面からも注目される地域に変貌するのではないかと私達は期待を持っているのです。
私たちの住む苗穂は都心には近く、少し足を伸ばすと、母なる川豊平川。広々と大きく開けた空間。遠く望むと藻岩山、この景観、この眺望は素晴しく豊かな自然があります。
水辺のロードウォーキング・ジョギングやサイクリングで健康な汗を流せるのも、この地区に住むものの特権といえましょうか。また、苗穂には沢山の歴史的建造物が残っています。「札幌苗穂地区の工場・記念館群」として北海道遺産にも選定されました。
こうしてみると、苗穂は魅力いっぱいの地域だと私は思うのです。「健康志向の町」「文化の香漂う町」「和を重んじ人と人が仲良く、人情味豊かな街」をモットーに掲げ、地元住民と新しく移り住む人たちが、調和の取れた新しいまちづくりに、行政も、この地の企業も、再開発に携わるデベロッパー企業体も、一体となって、かつて鉄道で栄えた苗穂にふさわしく、レトロで落ち着いた雰囲気のある街に生まれかわることを願ってやみません。